阿蘇・白川と立野峡谷の生い立ち

(1)阿蘇火山の生い立ち
立野ダムが造られようとしている阿蘇は、どのようにして形成されたのでしょうか。南北25km、東西18kmもの巨大な陥没地形、「世界最大級の力ルデラ」である阿蘇火山は、約27万年前を初めとして、14万年前、12万年、9万年前と、4度にわたる大火砕流噴火を起こし、そのたびに大量のマグマの噴出により地下に空洞ができたために陥没し、カルデラが形成されました。

約9万年前の4回目の噴火が最も大規模であり、高温の火砕流が海を渡って山口県まで達し、九州に生息する生物は壊滅したと考えられます。現在の阿蘇は、4回目の噴火の後に拡大したカルデラ内に、中央火口丘群が形成された状態です。中央火口丘群がほぼ現在の姿になったのは、杵島岳、往生岳、米塚が噴火していた2~3000年前です。

①約27万年前まで、いくつかの火山が活発に活動していた。

②約27万年前~9万年前、大火砕流噴火(カルデラ噴火)が4回起こった。

③大量のマグマ噴出により地下に空洞ができ、陥没してカルデラができた。

④カルデラの中に新たな火山(中央火口丘群)が生まれ、活動を始めた。

↑熊本空港を離陸したら左側の窓いっぱいに阿蘇カルデラが見えます。

(2)立野峡谷の生い立ち
阿蘇外輪山の唯一の切れ目である立野火口瀬。神話では、健磐龍命(たけいわたつのみこと)が蹴破って、尻もちをついて「立てんのう」と言ったからだと伝えられます。約9万年前の4回目の大噴火によりくぼんだカルデラに雨水がたまり、カルデラ湖(古阿蘇湖)ができました。その後、阿蘇外輪山は、なぜ立野で切れたのでしょうか。

九州は地殻の動きで、南北に年間1㎝ほど引っ張られています。その影響で、阿蘇外輪山も南北に引っ張られて、2つの大きな活断層の間が落ち込んでできたのが、立野火口瀬(古火口瀬)です。南側の活断層は、熊本地震でも動いた布田川断層です。立野火口瀬(古火口瀬)はその後、阿蘇火山の溶岩で何度も埋まるなどしてせき止められて、阿蘇カルデラ内では複数回、雨水がたまってカルデラ湖が出現しました。最後のカルデラ湖は阿蘇谷で8900年前頃、南郷谷で4万年前頃まで存在していたと考えられます。

このように、2つの活断層の間が落ち込んでできた立野火口瀬が、溶岩でうずまっては浸食されることを繰り返し、現在の立野峡谷ができました。この、活断層が集中する立野峡谷に立野ダムはつくられようとしています。

(3)鮎返りの滝・数鹿流ヶ滝
立野峡谷は、阿蘇カルデラ内に降った雨がカルデラ外に流れ出る唯一の谷です。立野峡谷には、白川に鮎返りの滝(落差40m)、黒川に数鹿流ヶ滝(落差60m)があります。この2つの滝は、どのようにしてできたのでしょうか。

現在の立野火口瀬ができる以前にあった古立野火口瀬を、およそ6万年前に阿蘇カルデラ内の火山から溶岩(立野溶岩)が流下し、埋めてしまいました。古火口瀬を流下した立野溶岩は、JR立野駅西方約1kmに達し、その溶岩流の末端部に当時の滝ができたと考えられます。その滝が約6万年の間に、浸食により3~4 kmほど後退して、現在の位置にあるのです。今回の熊本地震でも、2つの滝周辺は大きく崩落して、滝は後退しました。この、滝が後退して行った立野峡谷に、まさに立野ダム本体がつくられようとしているのです。

↓熊本地震前の鮎返りの滝(白川:落差40m)2012年11月23日撮影

↓熊本地震後の鮎返りの滝周辺 2016年7月2日撮影

(4)加藤清正が立野に街道を通さなかった理由

江戸時代、肥後藩主が参勤交代で使った豊後街道は、立野を通さず少し北の二重峠に造られました。また、大津町外牧から高森方面に向かう南郷往還も、立野を通さず北向山(白川南岸)に造られました。なぜ立野ではなく、急峻な外輪山に街道を通したのでしょうか。立野火口瀬付近は、何百年かに一度おきる大地震や大洪水で度々崩落することを昔の人々は知っていて、あえて急峻な二重峠や北向山に幹線道路を造ったと思われます。

明治以降、戸下ルートや豊肥線、国道57号が立野に造られましたが、2012年の九州北部豪雨で戸下(長陽大橋)付近の旧道は全て崩落しました。熊本地震では阿蘇大橋と付近の国道57号、豊肥線が崩落しました。立野で崩落した国道57号は、新たなルートを昔の街道である二重峠にトンネルを掘り造られました。そのような歴史的にも脆弱な場所に巨大な立野ダムを造ったことを、後世の人々はどう評価するでしょうか。

↓熊本地震で崩落した立野峡谷(立野ダム水没予定地)

↓熊本地震で崩落した阿蘇大橋と国道57号(2016年4月30日撮影)

(5)熊本平野と白川

外輪山が立野で切れて白川ができたときの土石流堆積物の上に人が住み始め、熊本市ができました。また、阿蘇の火山灰が有明海に流れ込み、有明海の干潟や濁りを生み、そのことが生物の多様性をつくり上げています。

熊本市を流れる白川は、洪水時に大量に流れる阿蘇からの火山灰が川底にたまり、川底が周辺の地面よりも高い天井川です。白川の堤防周辺にも、洪水時にあふれた火山灰により自然堤防が形成され、地盤が高く、堤防から離れると低くなる傾向があります。市電が通る大甲橋付近の地盤は、市役所前の地盤よりも8mほど高くなっています。白川があふれてしまったら、あふれた水は上通りや下通りなどの繁華街を突っ切って坪井川に流れ込むことになります。

↑白川と坪井川の高さ・昭和28年6月洪水の痕跡水位(国土交通省資料より)

ところが、熊本城築城以前の白川は代継橋付近で大きく北に蛇行し、市役所付近で坪井川に合流し、長六橋付近で今の流路に戻っていたようです。このことから築城以前の白川と坪井川は、現在のような高低差はなかったものと考えられます。

↑熊本城築城以前の白川、坪井川を現在の地図に落としたもの「坪井川とともにくらす(柿本竜治)」より

熊本城築城時に、加藤清正は白川と坪井川を分流させました。その後の400年余りの間に、白川には洪水のたびごとに大量の火山灰が堆積し、白川周辺の土地を8mほど高くしたと考えられます。

連続堤防で川を固定する以前は、洪水で川底に土砂がたまると川は低い土地へと流路を変えていました。ところが連続堤防で川を固定してしまえば、川底にたまった土砂を撤去しなければ川底は高くなっていくばかりです。特に、洪水時に阿蘇の火山灰が多く流れ下る白川は土砂撤去が必要不可欠ですが、きちんと行われているのでしょうか。400年後の白川はどのような姿をしているのでしょうか。

(6)阿蘇が育む日本一の地下水
白川水源(南阿蘇村)をはじめ、阿蘇には有名な水源がたくさんあります。豊かな湧き水を育んでいるのが、阿蘇の草原です。九州の一級河川のうち白川、緑川、菊池川(以上熊本県)、筑後川(福岡県)、大野川(大分県)、五ヶ瀬川(宮崎県)の6本は阿蘇が源流です。阿蘇の草原は九州の水がめなのです。

↑熊本県観光協会HPより

阿蘇に降った雨は、草原で地下にしみこみ、阿蘇カルデラ内の多くの水源で湧き出します。それらが白川と黒川に流れ込み、今度は白川中流域(大津町や菊陽町など)で農業用水として使われ、田畑にしみこんで再び地下水になります。

人口約74万人の熊本市は、水道水源の全てを地下水で賄っています。これは人口50万人以上の都市としては日本唯一、世界でも稀少な都市となっています。また、阿蘇外輪山の西側には熊本市を含む11市町村があり、約100万人の人々が暮らしています。この熊本地域においても水道水源のほぼ全てを地下水で賄っています。

阿蘇火山は、約27万年前から約9万年前にかけて4度にわたる大火砕流噴火を起こしました。その火砕流が厚く降り積もり、すきまに富んだ水を育みやすい地層ができあがりました。

そして約400年前、肥後に入国した加藤清正は白川の中流域などに多くの堰と用水路を築き水田を開きました。特に白川中流域の水田は「ざる田」と言われるように、通常の5倍~10倍も水が浸透します。水が浸透しやすい火山性の土地に水田を開いていったので、大量の水が地下に供給され、ますます地下水が豊富になりました。

阿蘇の「自然のシステム」と、加藤清正はじめ先人の努力による「人の営みのシステム」が絶妙に組み合わさり、熊本の地下水システムが成立しています。阿蘇外輪山から熊本市まで、約20年の歳月をかけて地下水は磨かれます。その間、ミネラル分や炭酸分がバランスよく溶け込み、おいしく体にやさしい天然水になるのです。

熊本地域の地下水システム図(熊本市HP)