第1回セミナーの記録を公開しました
【第1回】川と人びとの暮らし ~球磨川・川辺川の過去・現在・未来を考える~
日時:2021年2月15日(月)19:00-20:30
話し手:つる詳子さん(豊かな球磨川をとりもどす会、自然観察指導員熊本県連絡会会長)
※以下は第1回セミナー内容を元に加筆修正したものです。スライドや引用の際には実行委員会までご相談下さい。
※画像はクリックすると拡大します
●はじめに
球磨川は熊本県南部に位置しています。戦後復興に伴う電力不足で本流に多くのダムが建設されました。昭和30年に荒瀬ダム、昭和33年に瀬戸石ダム、そして昭和35年に市房ダムと次々にダムが建設されました。下流には遥拝堰や球磨川堰もあります。川辺川ダムは、球磨川の一番大きな支流川辺川の真ん中あたりに計画された多目的ダムです。不知火海流域面積に対して、一級河川球磨川の流域面積は大きな割合を占めているために、不知火海の環境は球磨川の影響をとても受けやすくなっています。球磨川の中上流に降った雨は、人吉盆地に集まり、球磨村・坂本町の狭窄部を通りながら、更にその間の支流流域に降った雨も集めながら八代海に注いでいます。
これまでこの流域でいろんなフィールド調査をやってきました。クマタカ調査、水質調査、水生昆虫調査、鮎の胃内容物調査、鮎の流下調査、干潟の堆積物調査等々、全国の専門家や日本自然保護協会、仲間たちの協力を得て30年ほどやってきました。2018年に荒瀬ダムが撤去された後は、蘇った河原の植生調査、山林のシカの食害調査、坂本の地域づくり活動などに取り組み、昨年7月の災害以降は地元の山々を走るトレイルランナーの皆様と災害支援活動をしながら、被災した集落や山々の現状調査などをしています。多くの現場を見ながら、分かったことについて報告いたします。
●鮎と球磨川
球磨川と言えば、なんと言っても鮎です。刺し網や投網、友釣り、ガックリ掛けいろんな漁法があり、30cmを超える尺鮎は、全国の釣り師を魅了しています。アユとアユを基盤とした産業は、流域の観光産業の大きな基盤となっています。
鮎は1年魚で、秋に下流で産まれた仔魚は下って、冬を海で過ごし、春になると川を遡上し、夏を中上流域の川の中で過ごします。
しかし、堰やダム建設後は、自然遡上が遮られるために、球磨川堰で掬われてトラックに乗せられ流域の30数か所で放流されます。そして、秋になると産卵のために下流に下るのですが、ダムがあると親アユは下ることが出来ません。荒瀬ダムは撤去されましたが、瀬戸石ダムのゲートが閉まっているために下ることができず、秋の台風や大雨時に瀬戸石ダムや遥拝堰のゲートが開けられると初めて遥拝堰の下流の産卵場まで下ることができます。また、遥拝堰の上流でも産卵するのですが、そこで孵化しても自分で泳げないアユはダム湖を下れず仔魚は生きて海まで下れません。
昔は、川に服のまま入ればポケットに鮎が入っていた話や、棒で水面を叩けば鮎に当たったという話をよく聞いたものです。アユやウナギなど移動性の魚はダムや堰の影響をもろに受けてしまいます。
●変わる流域の環境
流域は川だけでなく山間部も大きく変化しました。以前の上流部は豊かな緑に覆われていましたが、現在の森林の殆どは鹿の食害で下草や低木がまったく無くなったところばかりです。表土が流された山々の保水力は無くなり、降った雨はそのまま川に流れ込み、土砂や岩がすぐに川に流れ込むようになりました。
川辺川と球磨川の合流点付近の川辺川は、毎年水質日本一に選ばれています。そしてその下流で、球磨川本流と合流した先に人吉市があり、鮎と球磨川と焼酎と球磨川の水に支えられた観光地になっています。
人吉市を過ぎた中流部は狭窄部になっていますが、舟下りやラフティングが行われ、急流球磨川らしい景観が広がっていますが、さらに下ると10㎞つづく瀬戸石ダム湖と瀬戸石ダムがあります。鮎はここで阻まれて下ることができないのです。ダムの上流側では土砂が堆積し、水位を上げ水害の原因になっています。下流は土砂がどんどん流出してしまうため、下流や海の環境に大きな影響を与えています。八代平野に出る地点には遥拝堰があり、これより上流で産まれた仔魚の殆どはここまで生きて下ることができません。以前の流下調査では10%も下れず、死んで流れてくる仔魚ばかりでした。
球磨川の河口近くでは天然や養殖によるアオノリ漁が行われています。荒瀬ダムが撤去される前は、天然のアオノリは長さ30cmぐらいに成長するものだと思われていましたが、ダムが撤去開始されると、すぐ1.5m程に成長し、今では3~4mまで伸びるようになっています。しかし、温暖化により、以前は12月から採れていたのですが、年を越すようになり、年によっては2月になって初めて採取できるということもあります。
球磨川の河口に広がる干潟は、3~4mの干満差があり、3~4kmの干潟が広がり、豊かな漁場になっていましたが、ダム建設後その環境も段々劣化しています。
●ダム建設前の暮らし
ダムができる前は、球磨川を取ったら何も残らないというくらい、流域の暮らし、生業、子供の遊び場、河口の水産業など、すべてが球磨川の恵みの上にありました。
昔の球磨川は決して暴れ川ではなく、洪水の際でも川べりまでに行って手や足を洗うことができたと言います。洪水は昔もあったが、今のような天気予報も無い時代に、人々は雨の降り方や水嵩の増え方を見て、各自対応をしていました。今日は床上まで来るなと思ったら、床板をはずし、その上に畳やふすまや大事なものを置き、障子は外して柱にくくり付けた。建具などがないと、水が家の中を流れて、水の抵抗力を減らすことができました。水で障子紙がきれいに流され、水が引くと障子を張り、畳を干して元に戻す。つまり、一年に一度の大掃除の代わりだったようです。今日は1階の天井まで水がくると判断すると、天井の板を外し、二階に吊るした滑車で、家財道具を吊り上げていた。坂本や球磨村など、流域みんなの洪水対策はこうであったようです。大水が出ても被害を受けることなく暮らしていたので、「水害」という言葉もありませんでした。
しかし、戦後の電力需要を賄うなどの目的で、次から次にダムができました。下流から8kmに遥拝堰、20kmに荒瀬ダム、30kmに瀬戸石ダム、そして一番上流に市房ダムが造られました。
ダムの問題点は、まず、川を横切るので上流からの栄養分の供給や、魚の移動を阻害して環境が悪化することなどがあります。しかし、何よりも流域の人が撤去してほしいと望む理由は、水害が頻繁に起きるようになったことです。場合によっては毎年、少なくとも数年に一回水害が起こり、水が引いた後はヘドロが残るようになりました。水質が悪化し、河口から40kmに渡って延々とダムとダム湖が続くため、日本三大急流と言われたイメージも無くなり、川に依存していた地域の経済基盤が失われたことも、ダムによる大きな問題点です。
ダム完成後の水害は、逃げる間もなく家の二階までが水が来るようになり、後には1~2mの悪臭がする堆積物が残ります。それ以前の水害では、どんなに水が来ても、お店は3日すれば営業再開できたといいます。ダム建設後の重なる水害で、坂本も疲弊していきました。
住民はもうダムはこりごりというのが流域住民の共通した思いですが、建設省(現国土国交省)は、水害対策としてより大きなダムが必要だと、川辺川ダム建設を計画しました。水害体験者のためにダムが必要だと思っている人がいるかもしれませんが、何より水害体験者こそがダムは嫌だと反対の声を上げました。市民グループや私たちは集会、勉強会、選挙運動、住民討論集会などさまざまな活動を展開し、農業者、漁業者、全国規模の環境保全団体なども連携し、運動は広がりました。
蒲島さんが知事になった時は、80%の人がダムはいらない、荒瀬ダムも撤去してほしいというのが世論でした。知事は2008年9月に川辺川ダム中止を表明、2009年には荒瀬ダムの撤去が決定されました。荒瀬ダム撤去工事は2012年4月に始まり、2018年3月には終了となりました。川が流れるようになると地域は元気になり、閉まっていた旅館の再開、川遊び、鮎の釣り人の増加、鮎を提供するお店もできるなど、これからは球磨川を生かした地域づくりをと動き出した時に、今回の水害が起こったのです。
●昨年7月の球磨川豪雨
7月4日の未明から線状降水帯が6,7時間に渡って球磨川の中流域に停滞し、1日で400mmを越すような雨が降りました。橋梁含め多くの橋も流失し、家屋は土砂に埋まり、線路も何十キロに渡って大きな被害を受けました。ありとあらゆる斜面や谷が崩れて、土砂や流木が本流に流れ込んだり、また支流に堆積したり、せき止めたりしました。流域のあらゆる斜面、あらゆる谷が崩れたというのがあちこちを見てきた実感です。
山から来た大量の土砂が道路に流れ込んで塞ぐ。これが延々と何箇所も続く。支流の道路沿いが至るところで決壊し、見たほとんどの支流がその状態です。行徳川は、昔は幅2mぐらいの渓流でヤマセミも生息していましたが、川沿いはスギのモヤシ林が目立ちました。今回そこが周りの木が倒れて岩を巻き込みながら支流沿いを下り、球磨川との合流点の橋をせき止め、スギと岩が上流に向かってずっと埋め尽くしています。1mを超える石もゴロゴロしています。倒木の上を500m程進んでみましたが、斜面のシカの食害と森林の放置による影響が一番大きいように思えました。
今回の水害は、間伐してないスギ林が崩れたところや、小さな谷からなぜこんな土砂が流れてきたのかと思える場所、また、皆伐地も目立ちました。森林の問題が大きいと感じています。また、水害の数年前から、シカの食害で下草がなくなり、表土が流され根っこがむき出しに見えているような状態の森が、坂本中にありました。雨が降る度に土砂の流出がひどくなって、大雨が降ればひどいことになると心配していましたが、予想通りのことが今回起こったと思いました。鹿の食害を何年も見てきた斜面で、崩れた斜面の土砂が道を塞ぎ、球磨川にまで落ちている場所も何カ所も確認しました。
森林の伐採面積も多いです。皆伐地で、これが問題ではないかと思い歩いてみました。ところによっては50m置き、200-300m置きに山肌から決壊して、土砂が川まで流れ込んでいいました。流域で見ると、どれだけ多くの場所が森林の皆伐によって壊れたのでしょう。グーグルマップで球磨村を見ると、皆伐地が多い中園川の下流には、被害が酷かった球磨村役場がある中園地区があり、やはり多くの皆伐地がある小川の下流には、大きな犠牲が出た老人ホーム千寿園のある渡地区があり、神瀬川の下流にはやはり大きな被害を出した神瀬地区がありました。
●瀬戸石ダムの影響
森林と合わせて、中下流の視点から見ると瀬戸石ダムが大きな影響を与えています。ダムゲートの柱と本体がないだけでも、どれだけの多くの水が遮られずに流れたかと思います。
その下には高さ数メートルのダム本体があり、その下には長年溜まった堆積物があります。明らかに川の流れを阻害している障害物です。
水害後、瓦礫の中を片道2km歩いて瀬戸石ダムまでを往復しました。高さ5m程までに水が来た痕跡があちこちに残り、すべての谷から土砂が流れ出していました。道路より3mは高い場所にある線路も、すべて土砂で埋まっていた。ダムの下流にあった瀬戸石駅は、ホームも跡形なく破壊され流されていました。瀬戸石ダムの管理協には流木がひっかかり、2,1m上まで水か来た痕跡がありました。管理用道路は継ぎ目のところで最大75㎝ずれていました。水圧の強さが想像できます。
ダムを境に、上流と下流とで水害の様相は明らかに違います。ダムが流れを妨げ、ゲートを開けると一気に下流に水が流れますが、ダムに阻害された上流側のダム湖は水位もあがり、湖になる時間が長いので、静かに土砂が堆積し埋もれてしまいます。家は破壊されることなく、家財道具もそのままに。下流側は、ゲート全開で水量や流速が一気に増し、破壊力を持って流れ、下流の家屋を破壊してしまいます。上流と下流でまったく違うのはダムの存在があるからです。
普通は山から流れてきた土砂は、川へ向かって斜めに流れて堆積しますが、瀬戸石ダムの上流にある集落では、どこも平らに土砂が堆積していました。湖の中に長い間浸かっていたため、表面がフラットです。部屋の中でも、じわじわと静かに水位が上がり、家の中の洗濯物干しも植木鉢も倒れずにただ水に浸かったという感じです。窓ガラスも割れていない。下流の浸水した家では、屋内で土砂や流木と家財道具がめちゃくちゃに泥にまみれて堆積していたのとは本当に対照的です。ダムの800m程下流には、瀬戸石ダム駅前の立岩と呼ばれる大きな岩が見えなるほどに水が来ています。立岩にあった家屋も瀬戸石ダムも流されました。ダム上流とまったく違います。どれほどの勢いがあったらこれほどのことが起きるのか。水だけでは説明が付きません。ダムと山からの土石が破壊力を増して流れたためだと思います。
●流水型ダムについて
今回の水害の原因は、線状降水帯に加えて、山の荒廃に起因しています。山からきた土石が大きな被害を招いたこと、中下流においては球磨川本流の瀬戸石ダムが被害を拡大させたこと。また、長年の森林政策や土地利用政策の間違いなどもあったように感じています。川辺川ダムがあればどれほど役に立ったのか疑問です。
県知事は、水害の翌日から川辺川ダム計画復活をほのめかし、その後国とともに流水型ダムとして再浮上させ、着々と計画を進めています。流水型ダムは全国にありますが、効果や環境に関するデータがない中で、治水と環境を両立できる、環境にやさしいと知事は舵を切ってしまいました。
流水型ダムも、環境への負荷は本来のダムとほとんど変わらないと思ってます。水をせき止めないので、水質に関しては従来型ダムよりいいでしょう。しかし、それ以外はすべて、流水型ダムだからと言っても問題があることは同じです。川辺川ダムの場合、ダムの下部に開けられる穴は、長さ100m程になると思われ、また上流側の捕捉工から下流の副ダムまでを考えると、200-300mに渡って川の環境が変わります。上下流の河床の連続性は無くなり、水生昆虫や鮎など魚に与える影響は大きいでしょう。今後技術的に解決できることもあるかもしれませんが、技術的に解決できない環境への影響は川の中だけにとどまりません。流水型ダムになるとコンクリートをアーチ式ダムより3倍ぐらい必要になると思われますが、その大量のコンクリート骨材を得るために山をどれほど壊すことになるでしょう。
以前、国交省の説明では川辺川ダムの骨材調達に利用する原石山はクマタカの営巣木から3㎞離れているので大丈夫ということでしたが、クマタカの谷の利用について市民で調査を行った結果、原石山をエサ取りの場所にしていて、クマタカの繁殖に影響が大きいと中止になった経緯があります。水没予定地にある九折瀬洞窟では、一回でも水没すると世界にそこにしかない生態系や生き物には壊されます。この問題解決方法はありません。
●流域治水について
国交省も流域全体で治水を考えようと、水害後は「流域治水」へと方向転換を図ろうとしています。しかし、治水ダムや砂防ダム、堤防など結局コンクリートで自然を収めようということばかりで、コンクリート頼りのこれまでの政策を変える気がないという印象を受けます。滋賀県には県の流域治水条例があり、現段階では一番参考になると思います。詳しくは嘉田さんの回のセミナーで話を聞かれると思いますが、山の保全、土地利用もしっかり条例に盛り込まれています。
流域治水を考える上で、現場を周って気が付いたことをいくつか捕捉します。
人吉市、球磨村、坂本の浸水被害があった場所と犠牲者が出た場所を見てみると、人が亡くなった場所、大きく浸水していても一人も亡くなっていない場所があります。瀬戸石ダム上流のダム湖沿いの山間部集落は埋もれていますが人は亡くなっていません。
球磨村渡地区近くの浸水したエリアの地図と、戦後の地図を比較して見ると、土地利用の変化が分かります。今回浸水しても犠牲者が出なかったエリアは、人が住まなくなった場所だったり、避難する際に住民同士が声を掛け合い、コミュニティの力が強かった例があります。その一方で、昔は田んぼと小学校以外は何も無かったところに、その後民家や老人ホームができて、そこが今回被災して犠牲が出た例もあります。土地利用からも見直すべきところは多いという印象です。
また、堤防があるから安全だと思った、自分のところに水は来ないと思ったという声はかなり聞きました。既存の堤防設備への過信はかなりあったように思います。
堤防と山に挟まれた中流の集落では、各家の裏手に、山側へ続く細い道があり、それぞれその道を通って山に逃げて助かったと思われます。昔からもしもの時に逃げられるようにしていたものでしょう。
河畔林のあり方が関係しているところもありました。昔は河畔林があったが、伐採して無くなった場所で被害が大きくなったと思われる例がいくつかありました。ある地区では、水害に遭った後、河畔林を削るのを反対したのにやっぱりこうなったという避難の声もありました。田圃の河畔林の例もあります。前年まで幅30-50mの河畔林があったが、シカ・イノシシのすみかになるからと伐採したら、今回の水害で護岸は大きく壊れ、田んぼにも土砂が流れ込み、大きな土石がゴロゴロと転がり大きな被害を受けましたが。すぐ近くの河畔林がある場所は水害から守られ、青々とした稲が育っていました。
また、護岸の樹林はほとんどなぎ倒されましたが、竹があったところだけ竹が残り、仮になぎ倒された場所でも、流されずに護岸の崩壊を防いでいるところもあるなど、防備林としての竹の力を感じる場所を多くみました。
また、あちこちで壊れていない石垣を沢山見ました。壊れたコンクリート護岸の隣で昔作られた石垣が川岸の損壊を防いだり、石垣の組まれた棚田跡に植えた杉林だけが崩壊しなかったりというところは本当に多いです。同じ雨が降ったのに、苔むした石垣がそのまま残っているところを見ると、昔の人の知恵と技術にびっくりします。
3面張りの水路についてですが、三面張りの川に土石が堆積している例は無かったのをみて、治水の効果はあるのだろうと思いました。上流で土砂崩壊がなかったのかなと調べると、やはり数カ所大きく崩れていました。住民は、三面張りの川で助かったと言っていました。下流の被災家屋の方に聞くと、一旦水が引き出して後片付けをしていると、すごい音とともに土砂が一気に押し寄せてきて家屋が埋まったとのことです。三面張りもその効果だけではなく、場所やマイナス面も見る必要があります。
皆伐と崩落の関係も見過ごせません。また道路の通し方でも、道路の作り方次第で被害があったところ、なかったところがあるように思いました。専門の方に意見を聞きたいものです。
一つ一つ丁寧に見ていくと、ここはどうして浸水したのか、どうして人が死ななかったのか、どうして崖が崩れたかなど、すべて現場に答えがある気がします。崩落した箇所でも200-300ヶ所を見てきましたが、「現場に答えがある」というのが実感です。
●終わりに
先進国ではダム撤去の時代に入っていて、日本だけが逆行しています。アメリカでは、小さな堰もダムの数に含めますが、大小のダムを含めて91000基ぐらいあります。日本では、ダムは3000近くですが、堰を数に入れると、88000基ぐらいあると言われています。アメリカの25分の1の面積しかない日本に同じぐらいのダムがあるということになります。
EUでは、河川横断構造物は5000個ぐらい撤去されていいます。しかし、ダムマネーを争う人たちは、投機先を手つかずの原生林が残る東ヨーロッパに向け、東ヨーロッパに3000個ほどの建設計画を立て、300基ぐらいが建設、もしくは建設中。一方で反対運動も中止になったところも多いようです。
隣の韓国の4大河川は、前々大統領の任期中に建設された16基の堰建設後の環境悪化で、反対運動が広がり、現大統領になって、一つを残してゲートが全開されています。4大河川のうち2つの河川では堰撤去や、管理橋を残して撤去、常時ゲート全開等元の流れを取り戻す方向で動いています。
実は日本でも、国交省や事業者がいらないというダムや堰は過去結構撤去されています。しかし、住民が求めた河川構造物の撤去については、荒瀬ダム撤去は初めてであり、また撤去以降、ダム撤去の動きは全くありません。
現場を数多く見る毎に、想定外の降雨があったということは別にして、過去数十年に亘る種々の工事のあり方や、政策上の問題、私たちの暮らし方や考え方などが積み重なった上に、今回の水害があったのではないかという思いを強くしています。
かつては、上流の人々は遡上してくる鮎やウナギで下流とのつながりを感じ、下流は上流から流れる水の流れや供給される土砂の栄養分で上流とのつながりを感じ、上流も下流も互いに恵みを共有出来ていました。河川の分断で今、流域の恵みが共有できなくなっています。分断する最たるものがダム建設のような気がします。
よく流域と人間の体とを比較して考えます。流域全体の水の流れは、私たちの体や水やリンパの流れはまったく一緒のように思えます。田んぼや川、森の中を流れる水の循環を、総合的に考える必要があります。そういう視点で流域を見ると、これからの流域の治水のあり方が見えてくるのではないかと思っています。
※上記は第1回セミナー内容を元に加筆修正したものです。スライドや引用の際には実行委員会までご相談下さい。