2005年7月21日付けで、権利者である尾方茂氏より、2つの意見書が提出されました。
「一級河川球磨川水系川辺川ダム建設工事及びこれに伴う附帯工事 熊収17第5、6、15、16、17、18、19、20、27、28号」案件
2005年7月21日
熊本県収用委員会
会長 塚本 侃 様
             権利者  尾方茂

意見書


 川辺川ダム計画のために、私の家や農地が強制収用されようとしています。私が先祖から受け継いできた、大切な田畑と自宅です。私が現在まで調印をせずに来たのは、補償を受ける前に、まず代替農地を造成してほしいという気持ちからです。
 国土交通省は農地については造成してやると言いますが、具体的なことは何も示さず、口約束でしかありません。国土交通省に対しては、不信の気持ちがあります。平成8年に頭地代替地造成用地として補償を受けた際、国は私に対し、強制的なやり方で契約を行いました。
 これらのことについて、以下の通り、意見を申し上げます。


 

 私は、頭地代替地の造成予定地に、十数枚の畑や山林を持っていた。主に麦、ソバ、小豆、大豆などを作ってきた畑だった。畑だけでなく、柿や栗、ウメ、ゆくり、ぽーぽーの木など果物の木、茶や梶の木もあり、杉を植林した土地もあった。私はこの農地で自家消費用の野菜や果物を作ったり、現金収入を得るための茶や梶の木を育てたりして利用してきた。
 私は若い頃から、ダムのために農地を売ることにはどうしても反対だった。代替農地の目途もないうちに、私たち百姓が農地を失えば、どうやって生活していくのかという、生活不安の思いからであった。
 しかし、昭和59年に地権者協議会がダム反対裁判を取り下げ、村全体がダムを前提として進んでいく中で、「ダムができるのであれば、代替農地造成の目途がきちんと立てば、農地を手放すのは仕方ないのかもしれない」というふうに考えるようになっていた。当時の建設省に対しても、代替農地のことを要求していた。代替農地のことがはっきりしてからでなければ、調印することはできないと思っていたし、自宅近くに農地が欲しいということと合わせて、ずっと建設省にそのように希望を伝えていた。
 

2 契約書への調印について
 平成8年春頃に、国交省(当時の建設省)から印鑑を持って来るようにという呼び出しがあった。調印のことについての説明は一切なく、ただ実印だけ持ってくるようにという内容だった。私は、呼び出された理由はよく分からなかったが、印鑑を持ち第一出張所へ行った。
 第一出張所へ行くとまず、建設省の職員から「印鑑を貸せ」と言われた。職員は、紙に印鑑を試しについてみてから、「これは違う。実印ではない」と言った。私が「これは実印だ」と言い返した。すると職員は、どこからか私の印鑑証明を出してきて、今ついた印影と、その印鑑証明を見比べてから「確かに実印だ」と言った。
 国交省の職員が、自分の印鑑証明を持っていたことに私はびっくりした。私から国に印鑑証明を提出した覚えはなかったし、たとえ国といえども、本人が知らないうちに印鑑証明を取ることはできないはずだが、なぜ持っているのだろうか、と思った。
 それから国交省の職員は、私の印鑑を持ったまま、契約書の書類にポンポンと押印をしていった。あっと私が思った時には、すでに印鑑は押されていて、止めることすらできなかった。
 私が書類の内容を確認しようとのぞき込んだら、国交省の職員は「見ることはいらん」と強く言い、私には見せてすらもらえなかった。自分の印鑑を押された書類だったが、内容も見させないという、国の横柄な態度に腹が立ち、その場で職員の手からその契約書を奪い取り、破り捨ててやろうかと思ったほどだった。あっと言う間に印鑑を押されてしまい、どうすることもできなかった。
 この時に、私は住所や名前についても書かされなかった。それ以前に先だって、そういった書類に自分で住所と名前を書いた覚えもない。自筆で署名もせず、印鑑も押していないが、国交省の職員が印鑑を勝手に押し、いわば強制的に調印をさせられてしまったのである。 
 最初から最後まで、書類や調印、契約内容について、職員から説明はまったくなかった。書類の控えも渡されなかった。建設省の職員は印鑑を押した後、終わったので帰ってよいと私に言った。
 第一出張所から自宅まで帰りながら、私は、何とも言えず、さみしい思いと、むなしい気持ちになった。こういった形で調印させられたことに対して、強い後悔と怒りが湧いた。しかし、自分が署名をしていないし押印もしてないが、契約書に実印を押されてしまったという事実があるので、もう取り消すことはできないのだろうと思った。そのことで、余計にさみしさと、むなしさが込み上げた。


3 実印を換えたことについて
 その明くる日、私はすぐ五木村役場に行き、「印鑑を換えたい」と窓口で言った。国交省が私の知らないうちに手にいれた印鑑証明を持っている限り、また次に何をされるか分からないという不安があったためだった。
 役場の窓口は女性だった。役場の人もビックリして、その後すぐに無線で村内に放送を流した。こういったこと(本人ではないのに国が印鑑証明を持っていたこと)があったのは、自分だけではなかったのではないかと思う。本人ではないのに国交省が印鑑証明を持っていることが問題になったので、放送が流されたように覚えている。
 そうして、実印を現在の実印に変更した。契約書に国交省が押印したこの出来事の、直後のことだった。

4 覚書について
 国交省の強引なやり方に疑問があったので、この後で、県の緒方寿春さんに相談した。緒方さんはその頃、県の生活再建相談所にいた。またそれ以前から、長く五木村で農業改良普及委員をされていて、親しく付き合いをしていたためだった。国交省がひどいやり方をしたことを伝えた。緒方寿春さんは、「俺が行って話ば決めてやる」と言った。
 しばらくして、緒方寿春さんが覚書を取って持ってきてくれた。代替農地造成と配分についての覚書だった。私は、覚書には五木村の立会いが必要だと思い、村に言って立ち会ってくれるよう要望した。西村村長にだったか、職員にだったかは分からないが、村は「村には農地がないから押されん」と言って断った。緒方寿春さんが「それならば、立ち会いは自分で良かろう」と言って立会人となり、もう一度覚書を取ってくれた。再度覚書を取ってくれたのは、平成8年7月のことだったと思う。


5 現在思うことについて
 こうして、私は十数枚の農地を不本意な形で手放すことになった。
 この出来事のことは、これまで人にはあまり話していない。契約書の名前を自分が書いていないことなど、誰でも見れば分かることであるし、自分で署名、捺印をしていないとは言っても、国交省に印鑑を付かれてしまったので取り消すことはできないだろうと思ったので、契約を無効にしてくれというふうには言えなかった。
 この時手放したのは5反ほどの農地だった。私の持っていた農地の8割以上であった。5反の農地を失った後は、自宅の近くに残った1反あまりの田畑を耕作し、そのほか、人に貸していた土地を畑にかえたりして、なんとか生活を続けてきた。自宅の周囲にも畑があったことが幸いだった。
 手放したのは約5反の農地だったので、覚書の中でも同じ5反(50a)の土地を確保するように国に約束させた。しかし、その後現在まで、代替農地の造成も配分も、いまだ行われていない。今では、この時の覚書の中で期日を区切っておけば良かったと後悔している。農地造成の目途は今でも立っておらず、国に聞いても「明確になっていない」というばかりで、造成場所も工事期間も造成予定面積も答えようとしない。
 このような状況で、国は残った1反ほどの農地までも、私から奪ってゆくつもりなのか。

 この時に私の同意もなく、署名や捺印もしないまま調印させられた契約は、無効になるはずだと、後になって知った。しかし、かつて私の畑があった場所は、現在では代替地が造成され、昔の面影を探すことも難しい。そこには村の人たちの生活があり、あの契約は無効だから私の畑を返せというふうに言うことは難しいだろう。
 代替地には用事がない限り、ほとんど行くことはない。しかし、私は、この場所に私の先祖の汗と苦労のしみ込んだ田畑があったことと、国がそれを私から無理矢理に奪っていったことを、忘れたことはない。

 この出来事があってから、国に対しては慎重に接しなければならないという気持ちが、それまでよりも強くなった。
 こういうふうに国にされたのは、自分一人ではないだろうと思う。人をバカにしたようなやり方であり、今でも強い怒りの気持ちをもっている。この時の国のやり方は強制収用と同じくらい、ひどいやり方だった。強制的に、本人の同意もなしにやったことだから。
 国はダムのためにならば、どんなことでもするし、住民の生活再建についてどこまで考えているかも分からないと思うようになった。
 平成11年頃にも、共有地の調印に住人の家を回る際、「書き損じたらいかんから」と言って、書き込みでない白紙の委任状などにサインさせて印鑑を国交省が付いて行ったことがあった。平成8年のことがあってからは、私はできるだけ慎重にするようにしているが、十分に説明をせず、こうして白紙委任状を取ることなどは頻繁にあったようだった。
 それからまた昨年には、私が共有地についてだけは調印をしようとして、印鑑を付こうとしたところ、国交省の職員が、共有地の契約書の中に、私の個人所有地の契約書をまぎれさせていたことがあった。印鑑を押す前に気づいたので、国交省に指摘をして私は押印せずに済んだので良かったが、また国が私をだまそうとしたことに腹が立った。権利者をバカにしているのかと思った。
 その他にもいろいろなことがあり、国に対しては不信の気持ちを持っている。そして、口約束だけでは国を信用することはできないと思っている。
 国は「農地は造成してやるから調印しろ」と言うが、私は「農地を造成してくれなければ調印をしたくない」と、今でも拒否し続けてきた。農地の近くに家を持つのが自分の願いである。以前、だまされた形で契約させられたので、国の言葉を信用できないということも大きな理由の一つである。
 私は今の場所から移転したくはない。ここであれば、自宅近くに田畑も茶も果物も水もなんでもある。そういったものを楽しみながら、住みやすいこの場所で、今のままの生活を続けていきたい。農地もない代替地では、そういった暮らしはできない。
 もしどうしてもダムができるのであれば、私は、金銭による補償ではなく、農地に対しては農地による補償を希望する。国に対してこれまでも言ってきたが、納得のいく回答をもらえないままである。


 収用委員会で審理をしていただくのであれば、ぜひ現金ではない補償の可能性についても、きちんとお調べいただければと思います。
 また、現在の調書にある項目や額についても、お調べいただきたいと思います。最初から私は調印する気持ちがなかったので、項目や額について適当かどうかはよく確認できていません。補償対象となる内容について、含まれていないものがあるように思えますし、国の言う補償額も適当なものかどうか、詳しいことは分かりません。土地境界についても、実際の境界線とは一部異なっていると思います。
 どうぞよろしくお願い致します。






国土交通省 殿

 私は五木村田口に住む尾方茂です。
 これまで私は、国との間で、権利や移転についての協議を行なってきました。しかし、私の農地に関する希望や、現在の生活において不安に思うことについては、ずっと解決されないままになっています。そのため、私の希望や気持ちを整理して一度伝えるため、本日こうして訪問しました。
 解決して下さるよう、どうぞよろしくお願い致します。

 川辺川ダム計画ができて、39年の月日が過ぎようとしていますが、毎日の生活の中で、ダム問題は常に私の心の中にあります。「どうなるのだろうか、ダムはできるのだろうか、できないのだろうか」という、不安が長い間あります。

 できることなら、私が先祖からうけついできた家や田畑は、このままにしていてほしいと思っています。土地は簡単に売り買いするものではないと、小さいころから教えられてきました。人に迷惑にならない限り、今のままの生活が一番いいと思っています。

 わたしが先祖から譲り受けた財産は、わずかなものであるがゆえに、大切に思っています。代替地造成のために5反の農地を手ばなした今、いっそう強く、そう思います。代わりの農地を造成して、早く配分してほしいと思っています。

 今の代替地には農地がなく、生活していけるのだろうかと不安に思います。農地のない代替地へ移って、百姓はどうやって生活すればいいのですか。生活の見通しが立たない場所へ移りたくないと思っています。ここなら金が少々なくても、水もお茶も畑もすべてあります。ぜいたくをしない、今の生活が私には一番あっていると思います。

 国交省は、新しく人が変わると、あいさつしに来られることがあります。そのたびに、私はまた始めから説明しなければならない。「話は前の担当者から引きついでいる」と言うが、本当に引きついでほしいことが伝わっているのだろうか、というふうにも思います。

 国交省が今までに何をしてきたか。行政職員は、住民のために仕事をするのが本来の仕事である。それが、飲み水に使っていた貯水槽を壊してしまったり、裏山の木を切ってしまったり、田口溝ノ口水道の管理をしてやると言いながら、土砂で埋まったままにしていたり、墓地にあった、私の父親が植えた桜の木を全部切ってしまったり。やっていることは、本当に住民第一と言えるのか、分からない。私に限ったことではない。村に対してもそうではないのだろうか、というふうにも思います。

 代替農地についても同じことである。代替農地を造成する時に、私は5反の農地を手ばなした。平成8年ごろだった。田や畑の一枚一枚に、さまざまな思い出があった。調印するとき、国が強引なやり方をしたことを、私はよく覚えています。建設省の職員が私から印かんを借り、そのまま押してしまった。私がその書類を見ようとしても、「見ることはいらん」と、見せてもらえなかった。あまりにひどいやり方なので、腹が立って、県の人に言ったところが、「どうにかしてやる」と言って、農地を造成したあとの配分のことについての覚え書きを作ってくれた。農地が造成されたら、5反分を私に売ってくれるという内容だった。

 今では、覚え書で、期限を区切っておれば良かった、という後悔の気持ちもある。いまだに、それがいつのことになるのか、分からないのだから。


 ダムができるかできないか、はっきりと分からないうちは、できれば、まだ移転をしたくないというふうに思っています。ダムを作ることがはっきりと決まれば、仕方ないと思います。
どうしても移転をしなければならないのであれば、農地については、お金による補償ではなく、別の農地と交換してほしいと思っています。場所は、今と同じように、自宅から近いところでなければならないと思います。

 先日の協議のとき、白坂課長はいろいろなことを話しました。「新しい農地でも作物が作れるように、下の農地の表土を持っていくことを考えている」とか、「今の代替地にある空き地を試験耕作させることも考えている」とか、「完成した代替農地から先に、配分していくことも考えている」とか、いろいろ言われたが、何ひとつ、確実なことはないではないか。私との約束がいつ守られるのか、具体的な時期や場所、広さ、どのようなやり方でやるのかを、きちんと教えてほしいと思っています。

 今年4月に、裏山の立ち木が全部切られてしまいましたが、私の家は山のすぐ下にあり、山のなかばあたりには、私が飲み水や生活水として使っている水路、田口溝ノ口水道があります。先日、木がなくなったために土砂が流れ、かかえきれないくらい大きな石が、水路に落ちていました。人を呼んで手伝ってもらって、やっと取りのぞくことができました。これから梅雨や台風が来ると、石や木が流れて落ちてくるのではないかと不安な気持ちを持っています。

 ダムができるかできないか分からないうちは、できたら、水没地の木などはそのままにしておいてほしいと思っています。生活権をおびやかさないでいてほしいと思います。

 年をとり、私は目がだんだん見えなくなってきています。私はもうすぐ78歳になります。これから先を考えると、残っている時間は長くはありません。私はこの場所で死んでもよいと思っています。「ダムはできるのだろうか、できないのだろうか、私の将来の生活はどうなるだろうか」と、ずっと考えてきましたが、できたら、残りの時間は、不安のない、おだやかな生活を送りたいとも思います。
どうぞ宜しくお願いいたします。


平成17年5月23日


尾方 茂 

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